ずいぶん前の潮時に青墓を彷徨っていたら、
「わがちをふふめおにこらや」 という声がどこからともなく聞こえてきた。初めは気にせず屍人や蛭人間の滅殺に注力していたが、あまりにしつこく聞こえてくるので、次の潮時にその声の主を探して青墓をほうぼう歩いてみた。青墓は奥深く方角をすぐに見失うけれど、闘いを極力避け探すことに徹し歩き回った。何度か挑戦したものの、結局その声の出所を見付けることは出来ずじまいだった。後に夕霧太夫にあの声は何かと尋ねたところ、500年前に埋められた人柱の声だと言った。その人柱は土中で今も生きていて、この世界を支えているのだという。ならば、今埋めようとしている人柱は何のための物だ?(それはボクに、いや、”あたし”に関係があることか?) 十六夜ではないこの”あたし”はあの地獄からボクを連れ出してくれた。だから思惑に従いたい。「お前が発現した理由の一端がある」 ならばエンピマンを倒して、あの連中を排除しなければならないということ。このときボクに闘う理由ができた。 エンピマンを掴まえる必要があった。このまま逃げ回られていてはあの人柱が完成してしまう。どうする? 胸に体当たりを食らわせる勢いで突進した。これではジャンプはないだろう。飛んだ瞬間足を掴まえられるからだ。後ろにも逃げられるが直線攻撃は横方向の動きに反応しにくい。エンピマンが横に飛ぶ初動に入った。次動作での蹴る足を狙って組み付く。成功した。鬼子の手の長さを見誤ったよう。すかさずくるぶしから膝に回転を加え倒す。うつ伏せになった背中の腎臓めがけて打撃を食らわすと、「グ!」 そりゃあ痛いだろうよ。立ち上がりさまシャベルを足で押さえ、そのまま後頭部を連打。土に顔面がめり込んでゆく。本来なら鉢が割れスイカのように血飛沫を上げるのだが、相当な石頭だ。一瞬の間でシャベルに足を掬われ体が浮く。その隙にエンピマンが跳ね起き後方に飛び去った。顔についた泥を拭いながら唾を吐き、「目上に対して失礼だろう」 その言葉の終わる前に次の攻撃。距離を詰めてパンチと蹴りの連続攻撃。向こうはシャベルでそれを防御する。いくつか届いた打撃も体を微クロエちゃんが言う。「それまでユウの中で押さえられていた鬼子がミヤミユに乗り移ったようだったって」 それを受けて冬凪が、「夕霧太夫は最後の闘いの時まだ動ける状態じゃなかった。だからエニシで繋がった鬼子使いの伊左衛門に自分の鬼子を託して闘った」 クロエちゃんは、あたしの前髪をかき分けながら、「夏波もきっと、託されたんじゃないかな」 いったい誰の? あたしは誰ともエニシの赤い糸で繋がっていない。咬み千切ってしまったから。 すると、冬凪があたしの左手を取って、「あたしには夏波の赤い糸が見えるよ。ほら自分の目で見てみなよ」 あたしは目の高さに掲げられた自分の左の薬指を見た。その根元には赤い糸が結んであるのがうっすらと見えた。そしてその糸の先を目で追うと社殿の暗闇の中に人の形が見えた。「十六夜?」 ここではない別の次元にいるらしい十六夜がこっちを見て微笑んでいた。その右手の薬指とあたしの左手の薬指が赤い糸で繋がっていた。「でも、十六夜のエニシの糸は冬凪に繋がってるって」 誰かがそう言ってなかったっけ? クロエちゃんがかなり無理した真剣な表情で、「この世界が不安定になるとき特別な鬼子が生まれる。その子たちは力を合わせてその問題を解決するようにエニシに仕向けられる。その目印としてその子たちは両手に赤い糸が付いている」 あたしの目の前に両手を差し出して見せて、薬指同士で「こことここ」と指した。「ユウの代、フジミユやミヤミユ、それにあたしが大学生だった20年前、あの世とこの世がひっつくような次元の歪みが生じた。今再び同じようなことが起こりつつあって、夏波たちはエニシにそれを解決するよう仕向けられた特別な子たちなんだと思う」 いきなり世界があたしの肩に乗っかってきた。とんでもなく迷惑な話だけれど、きっと十六夜なら「流れに棹させ」と言うだろう。そしてそのことがきっと十六夜の解放に繋がる、そう信じて進むしかないのだろうと思った。 クロエちゃんは言わなければいけないことを話した反動で黙ってしまった。クロエちゃんたちが経験した「あの世とこの世がひっつくような次元の歪み」につ
夕霧物語の額絵を見た後、クロエちゃんが聞いて来た。「夏波はどっちの記憶を持ってる?」 どっちとはよ。冬凪を見ると、「夕霧太夫の記憶か伊左衛門の記憶か。どっちの視点で記憶してるかっていう意味だよ」 それなら、多分伊左衛門のほうだと思う。記憶の中のあたしはずっと夕霧太夫に寄り添っていたから。「伊左衛門かな」「やっぱりね」 クロエちゃんはあたしが鬼子として発現したことに違和感を抱いていたのだという。あたしが生まれ変わりのコミヤミユウという人が鬼子使いということもそうだけれど、最初の発現が遅すぎるのが引っかかったのだそう。「普通はもっと小さい時にやっちゃう。ユウもあたしも小学生だった。ユウは児童公園であたしは教室で発現してしまった」 その時何が起きたかは言いたくなさそうだった。「やっちゃう、してしまった」という言い方にそれを感じた。あたしの場合、駅前でスレイヤーの皆さんに囲まれた時、もし冬凪に止めて貰わなかったら、あの人たちを皆殺しにしてたかも知れなかった。つまり人の中で発現するとはそういうことのよう。「フジミユやあたしたちも、伊左衛門が鬼子で夕霧太夫が鬼子使いなのかと思っていた時期があった。最後の死闘を闘ったのが伊左衛門だったからね」 けれど最近になってそれは逆だと気がついた。「ユウがエニシの不思議な力のことを教えてくれた」 クロエちゃんが辻沢ではじめてユウさんと出会った頃、ユウさんは潮時での発現を克服しようとしていた。エニシの力を借りるためコミヤミユウに一晩中手を繋いでもらうことを考えついて、ある潮時にそれを実行した。潮時に発現しないということは、襲い来る屍人や蛭人間、ヒダルを生身の人間のまま迎え撃たねばならないから相当苦戦すると覚悟した上のことだった。けれど、ユウさんはそれ以上の危機に直面する。その晩は何故かいつもの屍人や蛭人間、ヒダルは現れなかった。その代わり赤い襦袢や青い半纏を身につけた、灰色の肌、金色の瞳に銀牙が口から飛び出し鎌のような爪を振りかざした、まるで夕霧物語から出てきたような恐ろしく強いひだるさまが大挙して襲ってきたのだった。ユウさんは苦戦しつつも何とかしのいでいたけれど、やはり生身の人間で
「最初の額絵は夕霧太夫がいた阿波の鳴門屋の場面だよ」クロエちゃんが説明してくれた。夕霧太夫は阿波の鳴門屋という街道一の楼閣でとても人気があった遊女だったそうだ。そして一番近くにいるかわいらしい禿さんが伊左衛門で、この二人のつながりが鬼子の最初のエニシだと言った。「次のは鳴門屋が炎上した時の場面」 隣の額絵は阿波の鳴門屋が炎に包まれ、夕霧太夫が火中でもだえ苦しんでる様が描かれてある。すでに体は赤く焼けただれ、まるで火炎地獄で責めさいなまれる亡者のよう。「次のは伊左衛門が、鳴門屋が焼亡したあとの瓦礫の山の中から夕霧太夫を引き出す場面」焼け落ちた瓦礫の山から黒々とした異形の者が引き出される様子が描かれてあった。夕霧太夫は真っ黒な消し炭のような状態になっても生きていたのだそうだ。「その横のが三人のアラビア人と伊左衛門が再会する場面」ここに再び豆蔵くんと定吉くんとブクロ親方が登場する。そして旅姿の遊行上人(この人だけ説明付)が何かを指ししめていた。「遊行上人が夕霧太夫を青墓にあるブルーポンドに連れて行けと言ってる」ブルーポンド? それだけなんでカタカナ?「それでその次のが、黒焦げの夕霧太夫を幟旗の付いた土車に乗せて、伊左衛門と三人の異国の人たちが街道を運んでゆく場面」 道中の様子が描かれている中、暗い山道の箇所で夥しい数の怪物に一行が襲われていた。「これはひだるさまというヒダルとはレベチの強敵。あのユウでさえ手を焼いてた。あたしたちは地獄の獄卒って言ってた」婉曲した刀、シャムシールを振り回して先頭で交戦しているのは大男の豆蔵くんや定吉くんとブクロ親方だ。けれども相当苦戦しているのが分かった。伊左衛門などは片足を切り落とされてしまっている。「その次は、青墓の杜の近くの六地蔵の前で三人の異国の人たちと伊左衛門が握り飯を分けあっている場面」 この先に危険が迫っていることを知っている伊左衛門はここで豆蔵くんたちに別れを告げるけれど、豆蔵くんたちはそれを聴き入れず最後まで夕霧太夫に付き従うと言っているのだそう。「その次の場面は、青墓の杜でこれまでにない数のひだるさまに襲われた一行の激戦の雄姿
しばらくしてクロエちゃんが、「あったけど、こんなの不気味すぎ」 と手にしていたのは赤い和蠟燭と取っ手の付いた蝋燭立てだった。「怪談とかに使うやつ」「そうそう」 でも、どうやって火を点けるんだろうと思っていたら、「たしかこの辺に」 とクロエちゃんが鴨居の中を手探りし始めた。「あった。点くかな」 と手に持ったのは上の部分が銀色で薄青色で透明のライターだった。そのライターを何度か擦ってようやく火が点くと、その火で和蝋燭を灯した。みんなの影が揺らぎながら社殿の壁に映っている。クロエちゃんが蝋燭立てを床に置いた。社殿の中には何もなく、板敷の床は土埃が浮き、いつのか分からない足跡がたくさんついていた。一番奥の、普通なら鏡とかがある高くなった場所には何も置かれていなかった。神様不在の神社。そんな感じがした。「さて。ここに夏波を連れて来たのは」 とクロエちゃんが壁の上のほうを指した。そこにはいかにも昔のものといった絵が何枚か掲げてあった。漆塗り風の黒い額に縁どられ、素朴な彩色の絵は所々絵の具がはがれてキャンバスの板目がむき出しになっていた。それがあたしにおそろしいことが描いてあるという印象を与えた。「額絵って言ってね、この神社の縁起、どうやって建てられたかってことね、が描いてある」 冬凪が説明してくれた。「夕霧太夫と伊左衛門の物語だよ」 それからクロエちゃんはその一枚一枚の絵を示しながら、鬼子の祖と言われる夕霧太夫とその従者、伊左衛門の死と再生の物語を語って聞かせてくれた。 一番右の絵には吹抜屋台の寝殿に人々が配されていて、ただそれが物語絵巻とかで見る宮中ではないのは、中央に描かれた女性がどう見ても遊女で、そのまわりに集まっているのが酔客、禿たち、それと彫が深く肌が浅黒い3人の異国の人だったから。その三人のうちの一人は軒を超えるほどの大男だった。そしてその横にいるのは髭面の戦国武将のような男。そして細身の若い男。この三人にどこか見覚えがあると思ったのは、豆蔵くんと定吉くん、それにさっきあたしたちをポルシェにのせてくれたブクロ親方にそっくりだったからだ。
暗い林道をクロエちゃんも冬凪も押し黙ったまま歩いてゆく。あたしも声を出したらいけないような気になってしまって一言もしゃべらないでいた。でも、気になるのは森の暗闇の中で時折する音、あたしの歩く速度に合わせるように下草を掻き分け踏み分けて何者かが移動する音だった。「冬凪聞こえる?」(小声) すぐ前を歩く冬凪に声を掛けてみた。「聞こえてるよ。あれはヒダル」 ヒダルとはダラダラ坂でいたずらをする妖怪だとミユキ母さんが言っていた。でも今聞こえている音にはそんな空想の話とは違う実在感があった。「大丈夫なの? 襲われたりしない?」「死にそうにならなきゃ何にもできないから大丈夫」 やっぱり危険な存在なんだ。あたしは左右の暗闇に目を凝らしてヒダルを目視しようと思った。たしかに木々の合間に何かが蠢いているのは分かったけれど、その実体が人なのか獣なのかまでは分からなかった。「さ、着いたよ」 先頭のクロエちゃんが林道の向こうが明るく見える場所に立ち止まった。冬凪とあたしもその横に立って開けた景色を見下ろした。そこは縁は梢が高い杉の木に囲まれた、爆心地より急な斜面で囲まれたすり鉢状の土地で底には鳥居と参道と社殿があった。「四ツ辻神社の奥宮。鬼子神社だよ」 始めて来たはずだけれど、なんだか懐かしい感じ。 クロエちゃんは斜面に沿った石段を下りて行った。冬凪とあたしもそれについて鬼子神社に向かったのだった。ヒダルがついて来るかと思って振り向くと、あたしたちが立っていた林道の切れ目のところに沢山の何かがうずくまっているのが見えたけれど、それ以上降りてくる様子はなかった。「ヒダル、ついてこないね」「ここは強い結界が張ってあるから」 冬凪が教えてくれた。するとクロエちゃんも、「ヴァンパイアもここには入れない。あたしたち鬼子の安地なんだよね」 と言った。鳥居は三本足だった。宮木野神社や志野婦神社のは三本と言っても真ん中が途中で切れている簡略版だけれど、ここのは参道方向の地面に斜めに付いていた。社殿は正面に階があり屋形のような建物で奥に長さがあった。誰も参拝に来ないなのか、さい銭箱や鈴が
クロエちゃんの決断力と行動力にはいつもびっくりする。ちょっと行ってくると言って出かけ、電話してきたと思ったら「今、なんでかパリにいるんだけど」って言ったりする。でもそれがクロエちゃんの今の成功を支えているとミユキ母さんが言っていた。〈♪ゴリゴリーン〉「お迎え来た。はーい。ちょっと待っててすぐ支度するから」 冬凪とあたしは急いで着替えて玄関を出た。するとそこに血のように真っ赤なポルシェが止まっていた。そしてその運転席からこちらを見ているのは、「ブクロ親方」 いつもは作業着姿なのに今はスーツに蝶ネクタイとおめかしして、しかもそれがとっても似合っていた。それを見て冬凪がびっくりするかと思ったけれど当たり前のように、「こんばんは」と言ったので、豆蔵くんと定吉くんの件といい、あたしの知らないエニシが方々に張り巡らされてると改めて思った。 クロエちゃんが助手席に、冬凪とあたしが後部座席に座った。ボボボボボと重低音のエンジンが掛かって出発。ポルシェの後部座席は狭かったけれど、鞠野フスキのバモスくんよりはなんぼか快適だった。なにより風が吹きすさんで寒いとかない。涼しいのはクーラーが効いているからだ。バイパスを走るポルシェの車窓から見えるのは、田んぼと畑と田んぼと畑と田んぼと畑と田んぼ。たまに竹林。飛ぶように風景が流れてゆく。これが全速力というものだよ。鞠野フスキくん。バイパスを降りてそのまま西山地区へ向う。山並みが近づきワインディングロードを軽快に走る。山が深くなり、沿道の木々が高くなってきた。もうすぐ峠を越えるというところまで来た時、ブクロ親方はポルシェを道脇にある駐車スペースに停めた。クロエちゃんと冬凪とあたしは、そこで降りた。ブクロ親方は、「着きました。ここからは歩いて行ってください。明日の夕方、四ツ辻に迎えに上がります」 砂利の音をさせてポルシェをUターンさせると、峠の方には行かずにワインディングロードを下っていった。もう山は暗くなりかけていた。まるで置いてきぼりを食らったような気分だ。「クロエちゃん。何処へ行くつもり?」 クロエちゃんは一人で暗闇が迫った森の中に入っていく。冬凪もその後をついて行くの